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真似とパクり。

最近よく街や店で目にする赤のボックスロゴT。

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そう、言わずと知れた某有名ブランドのパクり物だ。

僕はこれを見ていつも悲しい気持ちになる。

作り手に対して『売れれば何作ってもよいのか』という気持ちと、それを普通に買う人がいるという現状。

ファストブランドが流行る国だからといえばなんとなく納得も出来るのだが、ただファストブランドがトレンドを真似して自社でデザインを揉んで毎シーズン出すのと、ボックスロゴの文字だけ変えて作るのはその『真似』の質が違う。

そこには何一つオリジナリティが無いのだ。

もちろん物が溢れたこの時代に、全く見たことのない新しいオリジナルを創り出すことは難しい。

いや、無理と言っても過言ではないだろう。

だから皆過去の資料やトレンドからエッセンスを抽出し、それを上手く真似しながら自分のオリジナリティをいかに入れていくかという作業をしている訳だが、ボックスロゴの文字だけ変えるのはそこ対しての熱量が全く無いので『パクり』となってしまうのだ。

『真似』と『パクり』。

似ている様でいてこの二つの間には実は大きな隔たりがある。

わかりやすく言うと、有名人を徹底的に研究し、ある特徴を大袈裟に誇張したりして客を笑かせたり感動させるモノマネ芸人は『真似』で、アンジャッシュのコントを許可無しにそのまま母国語に変えて自分の国でやってしまうコメディアンが『パクり』。

前述のボックスロゴTはまさしく後者に当たるのだ。

しかしこれはもはや作り手だけの責任ではない。

このTシャツを見て本物を知らない人は『なんか最近やたら流行ってるな』ぐらいにしか感じていないのだろうし、だったら値段が安いので十分だと『パクり』の方をチョイスしてしまう。

実はこれが一番怖い。

そもそもパクりTシャツが売れなければ業者も作らない訳で、そういった本物を知らない消費者達がある種このパクり文化を生んでいるのだ。


話は少し逸れるが、徳島の鳴門に展示されている全てがレプリカで構成された美術館がある。

ダヴィンチもあればピカソもあり、ゴッホムンク、モネやフェルメールといった普段並ぶことは無いだろう芸術家達の作品のレプリカがところせましと並んでいてビックリするのだが、それよりもビックリするのはいつも大盛況だということだ。

以前朝の情報番組でこの館の取材で来場者にインタビューしていたのを見ていて、ある親が『世界中に普段散らばっている名画達がいっぺんに観ることが出来て嬉しい。アートに触れる事が少ない子ども達にもすごく貴重な体験だ。』と言っているのを聞いて、僕はこの国では一生アートやファッションは根付かないのだなと絶望したことを思い出した。


今日は自分の生まれた日。

いつの間にか自分も本物について考えられる歳になった。

日本の流行文化を否定するつもりは無いが、本物かパクりかの線引きだけは正しく出来る人間になりたいと願う、今日この頃。